知というものは本当は克服されるべきものなのだろうか、それとも知がゆがめぱそのせいで人間も痛みだすということなのだろうか。  近代は知性優先の時代であると考えられてきた。そして近代の矛盾は今やさまざまなところで露出してきたように見える。人類は知識と技術の発達によって、自分たちの生活を豊かにするためにさまざまなものを大量につくり出し、自然を改造し、社会を構成してきた。ところがまさにその技術の発展の故に、自然は破壊され、都市にいると空気さえろくに吸えない感じで、各種公害は言わずもがな、今や地球全体の気象状況すらおかしくなってきて、それで人類は幸福になったかというと、日本の中でも、比較的多数の者のいびつな幸福のために、何らかの意味で弱い者たちは雑巾のようにしぼりつくされて健康を害し生命を縮め、あるいは抑圧され、社会からしめ出される。まして、その日本その他の比較的少数の経済的先進国の繁栄のために、世界中の大多数の土地では、あらゆる社会的混乱がひきおこされ、貧困が押しつけられ、そして社会的不止に対して戦う者は痛めつけられている。こういった近代の世界的規模での害悪は、もしかすると人間があまりに「知性」に頼りすぎて、そろばんと電子計算機で何でもやれると思ってきたせいではないのだろうか。  そして知性そのものについても、特に教育の過程にあっては、受験教育を中心とする知性の訓練は、若者ののびのびとした人間性の展開にとって、かえって大きな妨げとなっている。そのせいで若者の感性はひどく片寄ったものになり、あるいは、たとえ人間性がゆがまなかったとしても、かなりうつろな思いをしつつ教育の過程を耐えねばならない。受験教育からはみ出してしまうと、失礼にも「落ちこぼれ」なんぞと呼ばれ、若者がたとえ自分自身は受験教育を離れて生きるつもりでも、受験教育の波をかぶる教育社会の外に出ることはできない。  そういう中で、知性というものはますますうさんくさいものに思えてくる。合理主義は結局間違っているので、合理的、合理的と言いたてると、上っつらだけでものがわかったようにぶった切って、人間の一番大事なところが失われてしまうのではないか。それよりもむしろ、人間の感性を重んじなければいけないのではないのか。あるいはまた、理性ではとらえることのできぬ何かいわく言い難いものが人間の奥底にあって、それこそが人間の根源なのではないのか。そしてそういう根源にかかわるのが本当の宗教、宗教的な「信」なのではないのか…….等々と近代的な知性の優位に対してさまざまな疑問がわいてくる。  果してそうなのだろうか。むしろ私は、こういう疑問の出し方は間違っているとはっきり言うべきだと思う。間違っている、というのが言いすぎであるとすれば、少なくともこれでは中途半端である。これでは知のはらんでいる根本問題は解決しない。だいたいが、以上に並べたような反知性の見解は、さまざまな異なった水準の事柄をこちゃまぜにしている。それは総合的に整理して考えねばならない事柄なのだが、その作業はおいおいやっていくとして、ここではとりあえず、いわゆる感性の問題だけをとりあげておこう。  知的な合理性だけでごり押しされると、感性が痛みだす。そのうち耐え切れなくなって爆発する。とすれば、爆発する感性が悪いのではなく、そこまで追いつめた方が悪いにきまっている。実際にそのように感性が爆発することによって、ごり押しされていたのだということがわかる。従ってそういう意味で、「合理性」の行き過ぎに対して感性を持ち出すことは、間違っているどころか、正しい叫び声である。そしてそれは正しいだけでなく、必要なことである。今まで比較的静かに住んでいたのに、道路が拡張されて、住宅の壁ぎりぎりに大量の自動車がひっきりなしに通るようになってしまったとする。騒音による精神障害と聴覚の障害、排ガスによる呼吸器の障害等々。となれば、こんなところには住めない、と叫ぶ感性は当然正しい。感性がそのように叫んでくれなければ、社会問題としてそういう都市開発をやめさせることはできないし、精神障害や呼吸器障害はますますひどくなっていく。問題は、もしも感性が抗議の叫び声をあげたとしても、個人的には経済的事情その他でそこから逃げ出すこともできない、ということなのだが、それでもともかく、近代合理主義の上に立った都市開発に対して、感性がこれはたまらぬと叫び声をあげるのは、どうしても必要なことである。  けれどもやはり、このような問題を感性の復権の必要性、という主張にまとめるとしたら、それでは中途半端である。そしてまた、「知性」に対立するものとして「感性」をとらえ、両者の関係を見る、という問題のたてかたも間違っている。感性によって知性を克服する、という発想は、どこか正しくない。中途半端だというのは、これではたまらぬと感性が叫び声をあげるのはいわば出発点にすぎないからである。出発点は重要であり、絶対に必要だが、出発点だけでは先には進まない。これはたまらぬと叫び声をあげた後、ではそれに対してどのように活動していくか、ということになれば、叫び声だけでは続かない。その活動は問題を見通す鋭い知性に支えられねばならないのである。出発点は確かに単に時間的に出発点であるのではなく、質的にも原点である。はじめだけでなく、常にこれはたまらぬという叫び声によって下から支えられているのでなければ、人間破壊的な「開発」に対して闘うことはできぬ。しかし出発点はあくまで出発点にすぎないので、初発の叫び声だけでは先に進むことはできない。  ここで考えるべきことは、このようにして人の生活を押しつぶしていくような近代的都市開発を、知性の産物とか、近代的合理性などと呼ぶことができるかどうか、ということである、むしろそれはあきらかに暴力と呼ぶべきものではないのか。こんなところで知性の感性のと言っているから問題がこんがらがってくるので、ここははっきり、暴力によって押しつぶされそうになれば、立ち上ってそれを阻止しようとするのが当り前だ、と言うべきではないのか。確かに、近代的な技術を長足に進歩させた「知性」がすさまじい都市開発と自動車の氾濫を可能にした。資本の合理性をあくことなく追求する近代社会のある種の合理精神が、経済発達の論理の上に、すさまじい都市開発と自動車の氾濫を要求した。けれども、自分の開発した技術がどういう意味と影響力を持ちうるかをほとんど考慮せずに、ただやたらと早さと効率を求める技術を発達させるような知性だけが知性であるのではない。むしろそのように一方向しか見ない馬車馬の如き知性は、おそろしく下等な知性である。それに対し、社会全体と人間性とに対して技術の発達が持ちうる善悪両面の影響力を深く洞察しつつ、その上ではじめて技術を用いる、という方がよほどすぐれた本物の知性である。  あるいはまた、資本の論理だけが合理性なのではない。確かに、近代社会は資本主義社会であったし、今でもほとんどそうである、という意味からすれば、近代的合理主義とはすなわち資本の論理であった。けれども、資本の論理のみが理にかなっているのではない。しばしば人は、合理性を狭義の目的合理性、すなわち特定の目的にかなうようにすべてを理づめで進めることの意味に解してきた。この場合、いったん特定の目的を絶対化して設定し、他のことをいっさい排除してしまえば、そこから先は、その目的にむかって最も効率の良いようにすべてを理づめで推し進めていくのが「合理的」であろう。新空港をつくるのが日本の総資本にとって有利なことだと判断してしまえば、そこから先は、どのように早く効率をあげて空港をつくるかという目標にのみ邁進するのが合理的だということになる。反対する農民、漁民、地域住民などがいるとすれば、暴力で押しつぶすか、利をもってさそうか、多少は妥協するか、といった判断はすべて、その「目的」にむかっての合理性から計算されることになる。けれどもこれこそ、特定の目的にむかって疾駆し、ほかのことは一切見ようとしない馬車馬の合理性、下等な暴力的合理性にすぎぬ。その限りで、資本主義は極めて合理的である。しかし、だからと言って、合理的なものは一切悪だと言うわけにはいくまい。その追求する目的そのものが、そしてその目的を実現しようとする過程が、どこまで社会全体と人間性とにとって必要、有益、もしくは有害、不必要なことなのかを、鋭く洞察する姿勢こそが、真に知性の深みに根ざした合理性であると言える。  近代的技術や資本の論理による暴力に対して立ち向い、反撃し、克服するには、彼らが考えてもいない数多くの水準にわたって深く鋭い洞察力を持つことが必要なのである。確かに相手は暴力なのだから、それに立ち向うにはこちらも持続する力を持たねばならぬ。ただの知性からは力は出て来るまい。しかし、その力は深く鋭い洞察によって支えられねばならぬ。この洞察を知性と呼ぶか、合理性と呼ぶかといったことは本当はどうでもよい問題である。ただ、合理主義ではだめだったから今度は非合理で行こうとか、知性ではだめだったから感性で、というようなことでは、初発的な力にはなっても、問題のひろがりは見えてこないのである。(田川建三『宗教批判をめぐる』による)