ネズミ色はあまりいい意味をもたされていない。なにしろ世界中どこでも害獣と見なされているネズミの色なのだし、これを灰色と言い換えても、否定的な意味に結びつく。ネズミ色の服を着た人が、煤けたような壁に囲まれて、灰色の茶碗を手にしているとしたら、ずいぶん地味で面白みのない世界を想像するのがふつうだろう。「灰色の世界」と聞けば、明るく楽しい世界の反対がイメージされるし、「グレーゾーン」と言えぱ、曖昧でどっちつかずと怪しまれる。  だが身のまわりに目を向けると、わたしたちが生きる世界には意外に灰色が多い。舗装された道路、コンクリートの建物、さまざまな配管、電柱に電線……都市生活をとりまく環境の大部分はこの色で占められている。公共空間だけでなく、オフィスや自宅でも多くの製品にグレーが使われる。特別な意味をもたず、特別な感情にも結びつく必要がない場所では、グレーのほうがよい。  もし都市環境のあらゆる場所に鮮やかな色がつけられていたら、わたしたちの感覚はマヒしてしまうだろう。また室内の灰色の部分を、すべて違う色に塗り替えたら、混乱と疲労で仕事も勉強も手がつかなくなってしまうのではないだろうか。感覚と感情の安定を支えているのは、実は目立たない灰色のほうなのだ。  つまり灰色は消極的だから役立っているわけだが、人間は灰色をさらに評価することもできる。そのひとつが白黒写真である。白黒写真は言うまでもなく、世界から彩度を差し引いて、明度だけで表現する。さまざまなグレーの段階だけで表現するのだから、正確に言えば、白黒ではなく、灰色写真である。だからモノクロームつまり「単色写真」とも呼ばれる。面白いことに人間は、彩りのないさまざまな明るさの灰色だけで表現された風景を見て、それを美しいと感じることができる。それにはいろいろな理由が考えられる。  そのひとつは色を差し引くせいで、わたしたちが光と影に敏感になることだろう。たとえば新緑の木々から色を差し引いたとたんに、木の葉の重なりの微妙な影に気がつく。初夏の海をモノクロームにすると、砂と波が織りなすパターンが見えてくる。  人間の顔もそうである。モノクロームで表現された人間の顔には、肌色とはまた違った趣がある。引き締まった画面の陰影が、人柄の深さを表すこともあるし、人生の時間を感じさせることもある。このように、わたしたちは灰色の無限の段階のなかに、光と影の戯れを見て楽しむことができる。  こうした感覚は実は昔から存在していたものだろう。都市のなかでいえば、日本や韓国の屋根瓦がそうだ。グレー一色の世界に見えるが、実はそうではない。同じグレーでも濃淡があるし、また天気によっても色が違って見える。山村の瓦と、漁村の瓦が違って見えるのは、環境だけでなく生活のせいもあるだろう。雲の色を反映して、夏の盛りには強く照り、雨が降ればしっとりと落ち着く。世界の建築のなかでも、これほど豊かな灰色をもった屋根はあまり見当たらない。  おそらく日本は灰色の美しさに目覚め、それを大切に育ててきた文化をもっている。伝統色と呼ばれる色名の体系を調べてみると、近代以前の日本には、特に灰色糸に驚くほど多くの色名があったことがわかる。灰色も灰だけではないのだ。煤にも種類があるし、墨にもいろんな墨がある。派手な色彩をヒカえ、微妙な明暗の変化を愛でる。そのもっとも洗練された芸術のひとつが、茶の湯にちがいない。  わたしが好きな色のひとつに、その名が残されている。それは茶の芸術が完成された時代の名残りとも、また灰色の美学を表しているとも思える。利休鼠というネズミ色である。千利休の名と鼠の組み合わせがいい。ネズミ色の服を着た人が、竹煤色の小さな部屋で、灰色の茶碗を見つめている。日本の文化はそんな世界に、どんなカラフルな色にもまさる、最高の美を認めることもできるのである。  だがデジタルイメージが生活のなかに温れるようになって、こうした感覚は大きく変わりつつある。たとえば映画の特殊撮影やゲームソフトといったフィクションのなかで使われてきたようなファンタジックな色、あるいは広告写真で使われているような、唇や肌の色をキワ立たせたり、反対にソフトにしたりする色彩効果は、コンパクトカメラにさえ装備されている。その特殊効果を、もはや誰も特殊とは思わないだろう。  ある意味で、こうした人工物の世界の色は、もともと人間が作ってきたモノの属性としての色だから、どんな色が何に使われようとも、本質的な変化はないとも言える。デジタルイメージによって引き起こされている色彩の変化は、むしろ「自然の色」の世界において顕著なのだ。  たとえば電子顕微鏡によるバクテリアやサイボウの写真。あるいは人工衛星による地表の写真。これらの写真で使われている色は、自然の色だろうか。そうではないだろう。大腸菌やエイズウィルスが紫やオレンジで表示されていたり、熱帯雨林の破壊を示す衛星写真では、残された森が赤に、そのなかを通る道が緑になっている。  これらの「写真」はいずれも情報処理を経たイメージであり、その過程でグラフィック表示上の都合によって、ある特定の色彩を与えられている。わたしたちが慣れ親しんでいるカラー写真の「自然の色」とは、意味合いがまったく違う。地図に使われる色と似たような意味で、それらは便宜的な色であり、そのことが了解されているからこそ、ウィルスが紫で、密林が赤であっても、誰も文句は言わないわけだ。  したがって科学における「自然の色」とは複雑な問題である。グラフィックの対象となる「自然」は、固有の色をもたないとも言えるからである。たとえば地球の気候のシミュレーションや大陸プレートの動きのグラフィックでは、固有の色の再現や表示が、そのイメージが伝えようとする現象にとって、本質的だとは見なされていない場合が多い。自然における色彩の変化とは、この点で、自然科学の方法論から必然的に生まれてきたものであるとも言える。 (港千尋『芸術回帰論』による)