誰でもお腹が空くと食べ物を欲します。食事を摂るのは、まず食欲を満たすためです。おいしいものを食べ、綺麗な服を着て、豪華な住宅に暮らせれば、幸せだと感じます。このようにモノやサービスを消費することによって各偲人が最終的に享受する幸福や欲望充足の度合は、ひとの福祉の基準として適切だといえるでしょうか。 一九世紀以来の功利主義(utilitarianism)の考え方では、幸福ないし欲望充足の度合を「効用(utility)」とよび、効用をひとの福祉の基準とみなしてきました。ここでは「効用」という言葉も「功利」という言菓も、通常使われるときの意味とは違うことに注意してください。効用とは、「薬の効用」のように、効能・効き目とか使い道といった意味でよく使われますが、経済学では幸福または欲望充足の度合を指します。また、日本語で「功利的」というと、自分の利益だけを求めるさまを指しますが、功利主義自体にこのような意味はなく、効用をひとの境遇の良しあしの尺度とし、社会全体の効用の総和が大きいほど社会状態は望ましいとする考え方のことです。 さて、効用は、ひとの境遇の良さを測るのに適切な尺度なのでしょうか。確かに、食べるものも十分になくて食欲を満たせず、粗末な住居で冬の寒さに耐えているひとや、病気.で苦痛を感じているひとの境遇が良いとはいえません。逆に衣食住に何ら不足なく、健康で人間関係もうまくいっているひとの幸福・欲望充足の度合は高く、したがって良い境遇にあるといえるように思われます。 しかし、功利主義の考え方にはいくつかの問題点があります。第一に、功利主義では幸福ないし欲望充足の度合が数値によって計測され、しかも異なる個人の問でもその数値を比較することに意味があると考えていますが、その根拠は薄いといわざるを得ません。たとえば、「あなたがこのケーキを食べたときの幸福の増加量は一〇だが、私が食べたときの幸福の増加量は二〇で、あなたの二倍あるから私が食べるべきだ」と主張しても、相手は納得しないでしょう。幸福や欲望充足は主観的な感覚ですから、その度合を客観的な数量として計測することは困難です。二〇世紀以降の経済学が功利主義をべースとしない理論を構築しようとしてきたのは、客観的に観測可能な概念に基づいて科学は築かれるべきだと考えたからです。  第二に、幸福・欲望充足という主観的感覚は、その個人の形成してきた習慣や、置かれている社会的環境にも強く影響されます。たとえば、裕福で贅沢な飲食に慣れ、高級なシャンペンがないと欲望が満たされないAさんと、貧しくて辛うじて健康を維持するのに必要な食事を摂取しているBさんがいるとします。Aさんは、贅沢な食事はあるが、高級なシャンペンがないために不満を感じている一方、Bさんはたまたま普段は食べられないようなご馳走−それでもAさんの食事よりははるかに質素な食事を得られて快い気持ちになっているとしましょう。このとき、幸福・欲望充足の水準という功利主義の評価基準では、Aさんの方がBさんよりも劣ることになってしまいます。しかし、贅沢な食事をするAさんの境遇の方が、質素な食事をするBさんの境遇よりも悪いという評価は、明らかに不適切でしょう。  同様に、各世帯が二、三台の車をもつのが珍しくないアメリカ社会で、車を一台しか買えないために不満を募らせているひとと、荷車程度の車両しか普及していない最貧国で一台のスクーターを手に入れて大変に満足しているひととを比較して、幸福・欲望充足の水準という観点から、後者の境遇の方が前者の境遇よりも患まれている、というのは直観的に受け入れがたい主張です。このように、効用の水準は習慣や社会的環境などに影響を受けるため、その個入の置かれている客観的な状況を評価する基準としては適切ではないのです。この功利主義の欠点を、現代の代表的な厚生経済学者アマルティア・センは「物理的条件の無視」といいました。  第三に、幸福ないし欲望充足の度含が高まるということが、必ずしもそのひと自身の生き方の向上と結びつかない場合があります。たとえば、喫煙者にとって一服のタバコからは快楽を得られます。しかし、このひとは本当は健康と他人の受動喫煙の回避のために禁煙したいと思っていて、タバコを吸うという行為を、より良い生き方とは考えていないかもしれません。このとき、タバコを吸うことによって欲望が充たされ、このひとの状態はより良くなったというべきなのでしょうか。「欲望を充たす」ということと、自分自身がその行為を「評価する」こととは、必ずしも一致しません。人間は、自分の今の生き方を他にとり得る生き方と比較し、あるいは自分の生き方と他入の生き方とを比較評価することのできる存在です。福祉とは入間のより良い状態とは侮かを問うものですから、むしろ「評価する」という人間の精神的活動に関わります。この点を見逃している功利主義に対して、アマルティア・センは「評価の無視」といって批判しました。  評価するという視点に立つならば、前に述べた功利主義の第二の問題にも新たな見方が可能になります。アメリカ入に対して車一台で欲求が充たされているかと問うのではなく、また最貧国のひとに対してスクーターを得て満足しているかと問うのではなく、どちらのひとの状態の方が恵まれていると評価するかと問うならば、大概のひとはアメリカ人の方が恵まれていると答えることでしょう。「欲求する」という純粋に主観的な行為に比べて、「評価する」ということは、より客観的な観点に立つ精神的活動なのです。 (蓼沼宏一著『幸せのための経済学−効率と衡平の考え方』による)