アメリカの「TEDカンファレンス」は、招待者のみが参加できる講演会である。毎年、企業経営者、ハリウッドのエリート、元大統領などが、カリフォルニアのリゾート施設に集まって開催されている。テーマとしては、テクノロジーやエンターテイメント、あるいはデザインに関するものを扱っている。二〇〇六年になって、このカンファレンスの主催者は、それまでの閉鎖的なやり方をやめて、ひとり一八分の講演を、ウェッブ上に無料で公開した。するとこれまでに五、○○○万回も視聴され、カンファレンスの経営はこれによって大成功をおさめたという。チケット代は、九九年の六〇〇ドルから、〇九年には六、○○○ドルにまで跳ね上がり、参加者は六〇〇人から一、五〇〇人に増えたという。  いったい、六、〇〇〇ドルもするカンファレンスの中身が、どうしてネットを通じて無料で視聴することができるのだろうか。その理由は、カンファレンスというのはたんに講演を聴く場ではなく、そこに参加する出席者たちと歓談する場であって、そのことに参加者たちは大きな価値を認めているからである。参加者たちは、講演者と同じくらい優秀な人々と会話することに、六、〇〇〇ドルを支払う用意がある。ネット上では情報コンテンツを無料にしても、直接的な経験には高い価格がつく。インターネットが発達したおかげで、体験型の商品には、大きな利益が見込める時代になってきた。  すでにカリフォルニア大学のバークリー校では、一〇〇人を超える教授の講義がユーチューブで配信されており、これまでに二〇〇万回以上も視聴されたという。スタンフォード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)も同じように、講義を無料で配信している。MITのオープンコースウェア構想では、講義ノートや課題や講義ビデオなど、ほぼすべてのコンテンツが、オンラインを通じて無料で提供されている。なぜ大学側は、コンテンツを無料で提供するのかといえば、それは大学が、情報そのものよりも、教員と直接コミュニケーションすることに価値を置いているからであろう。もちろん学生にとって、大学の卒業証書も、キャリア形成のために重要な役割を果たしている。けれども、大卒資格を得ることの価値は、たんに講義を視聴してその内容を学ぶことではなく、教員や周囲の優秀な学生たちとコミュニケーションするという、その体験にこそある。大学が提供する情報そのものは、無料でもかまわない。いや無料だからこそ学生をひきつける、という論理が成り立つのである。  こうして、大学を倉めた情報産業においては、作った商晶をすべて有料で売るという考え方が通用しなくなってきた。そこで私たちは、発想を逆転させて、作った商品の九割以上を無料で提供するという、「浪費の効用」について考えなければならない。例えばタンポポは、その種子をばら撒くことによって、自分の子孫を増やしていく。タンポポの種子は、その大半が無駄になるけれども、とにかくあらゆる繁殖の機会を捉えて繁殖しようとする。情報産業の場合にも、同じことが当てはまるかもしれない。企業は、あらゆる機会を捉えて、商品の種子をばら撒いていく。するとある偶然の機会に、その情報が購入され、思わぬ方向にビジネス・チャンスが広がっていく。そのような進化論的な発想がなければ、企業は利益を上げることはできないのではないか。ネット社会においては、大きな試行錯誤が求められるようになってきた。  クリス・アンダーソンによれば、今日の革新者は、「希少なもの」をいかにして「効率的」に使うかを考えつく人ではなく、「潤沢なもの」をいかに「浪費」すればよいのかを考えつく人であるという。無料で何かを提供する。するとそれが社会の変革を促すと同時に、あらたな商売の機会を生み出していく。こうした進化論的イノベーションの方法は、「ロスト近代」の駆動因を理解するための、重要な示唆を与えているだろう。  それ以前の「ポスト近代」社会においては、人々は、広告に釣られて自身の欲望を肥大化させてきた。人びとは、さまざまな記号消費に踊らされ、欲望を喚起させられることによって、資本主義を駆動してきた。ところが「ロスト近代」の社会においては、広告以外の商品情報が、あふれだしている。私たちは商品の中身をいっそう吟味するようになっている。「ロスト近代」社会においては、私たちの欲望とは無関係に、情報のシャワーが降ってくる。そうした環境のなかで、私たちは、本当に必要なもの、あるいは評緬できるものを買うことができるようになっている。情報があふれる社会、もっと正確に言えば、「情報を解釈する情報」があふれる社会においては、商品の質を吟味する力が養われていく。すると人びとは、商品の価格が限界費用にまで下がってから買うという、賢い消費行動に出ることができる。あるいは入びとは、あまり利益は上がっていないけれども、すぐれた商晶を提供する企業というものを探して、賢くお金を使う方法を学ぶことができる。  「ロスト近代」の社会においては、そのような賢い消費の条件が整ってきた。入びとは、記号消費ではなく、価値解釈を伴った判断力によって、商品を購入するようになってきた。人びとは、以前にも増して、自身の判断力を洗練させていくことに関心を寄せている。「記号」を消費するのではなく、「価値解釈」を消費する。こうした「記暦消費」から「価値消費」への転換は、「ポスト近代」から「ロスト近代」への転換を示しているだろう。記号消費は、自身の欲望の襞を増大させる原理であるのに対して、価値消費は、自身の判断力の洗練化を奪く原理である。「ロスト近代隔においては、情報が無料になる一方で、本当によいものを消費するという、オーセンティックな(本物志向の)生活が可能になってきた。  「価億消費」の生活は、自分が「欲しいもの」を買うという自己中心的(エゴセントリック)な営みではない。あるいは、記号で差異化されたアイデンティティを獲得するという「私探し」的な営みでもない。「価値消費」とは、まずもって、その価値を生み出した入を「応援」したり「賛同」したりするという、公共的な営みである。私的な欲望を満たすのではなく、自らもまた、価値解釈の判断をネット上に加えることによって、公共的な評価空間を支えていく。そのような価値解釈の実践が動機となって、人々の消費行動が刺激されていく。「ロスト近代」においては、私的な欲望を満たすだけの自由競争は終焉し、代わって「公共的な評衝」が競われるような、自由な評価競争の時代へと移ってきたように思われる。  実際、アマゾンや価格ドットコムで売られる商品へのレビューや、ツイッターを通じたゴシップ評価、あるいはユーチューブによる情報提供などは、そのような公共性の空問を、政府の助成金に頼らず築くことに、ある程度まで成功してきたといえるだろう。こうしたコミュニケーションのインフラ(公共的基盤)は、私たちが民主的な取り決めによって提供したものではなく、企業が自生的な仕方で提供してきたものである。ネット上の公共空間は、この場合、民主的討議を経てデザインされたのではなく、企業の利潤追求と消費者の自由な活動のなかで、自生的に育まれてきた。上からの主導で公共規範を実現したのではなく、個々の無数の活動によって下から生み出されてきた。私は以前、こうした公共性の性質を、パレートのいう「残基(残余)」という概念を発展させて説明したことがある。「ロスト近代」においては、公共的なものが、下からの活動によって生み出されていく。そういう駆動因にこそ、私たちは資本の新たな論理を求めることができるのではないだろうか。 (橋本努『ロスト近代』より)